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私を政治と結びつけた最初の経験は、小学生の時、父の都合で行ったアメリカ、ケンタッキー州での出来事でした。ケンタッキー州のレキシントンという町で小学校3年から6年までの3年間を過ごしましたが、その当時のアメリカの小学校といえば、のんびりしたもので、3年生のときに掛け算をやっていたんです。日本より1年遅れです。小さいながらにアメリカっていう国は土地も、家も、庭も広くて、大きな車がいっぱい走っているような、すごい国だという実感がありました。なんでこんなのんびりしたアメリカが一生懸命勉強をしている日本よりもすごい国になるんだろうという思いが単純な疑問として小学生の私に浮かんだものでした。

ケンタッキーでの経験は、わたしにとって大変貴重なものとなりました。荒野の土地を開拓して国を作っていったアメリカ人のいわゆるアメリカンスピリットは、まだまだ残っています。小学校の仲間たち数名で、映画「スタンド・バイ・ミー」のように自然の残るケンタッキーの林、川、牧場を越えて冒険の真似事をよくしたものでした。友人には白人、黒人、黄色人などさまざまな人種がおり、見た目からして違いがあるのは当たり前。当然その違いを前提としてすべてが始まるので、日本人のように「人と違う」ことを恐れたりしません。子どもの頃から、自由な発想ができる環境にありました。だから、そんな環境で私にもそういう素地が身についたのだと思います。

私は米国ケンタッキーの小学校に月〜金曜、そして土曜には日本人学校に通っていました。当時の私はもちろん英語は話せません。ましてや、ケンタッキーは、南部訛りのある地域です。きれいな英語なんぞ話してはくれません。初日にいきなりバスに乗せられて、現地の学校に連れて行かれたときには、さすがに父を恨みました。後から友人に聞くと、「お前の名前はなんていうんだ?」とか、簡単なことを聞いてくれていたようですが、まったく受け答えはできませんでした。一斉にトイレに行く時間があったのが、大変な救いで、「トイレに行きたい」という言葉すら分かりませんでした。今ではいい笑い話ですが、そういう中で子どもなりに周りの子どもたちと交流を図ろうと、ボールで遊んだり、分からなくても話の輪に入ったり、とにかくいろいろと工夫をしたものでした。

海外に出て私がはじめてわかったこと、実感したことがあります。私が日本人であるということです。回りが日本人だらけではそういうことを意識する必要はありません。外国人(といっても、そのときはわたしが外国人だったのですが)、に囲まれて、生活する中で、日本のニュースなどはテレビでもよくみましたし、昭和天皇崩御の際には、子どもながらに日本をなつかしくいろいろ想い出しました。その頃、家にあった徳川家康などの伝記を(英語の本が読めなかったというのもありますが)よく読み、ふるさと岡崎に対する想いはこの上なく大きなものとなりました。

私が帰国して驚いたのは、日本の小学校での制服、規則正しい態度。日本の規律正しさはいいところでもありますが、すべてにその画一性を大いに求める点には驚きました。画一性から外れる者は、今でもそうですが、いじめの対象になります。違いがあれば、ともすれば勝手なことをしていると捉えられ、違いがあるのが当たり前の米国とは大きく違うことに違和感を覚えたものでした。

私の政治への想いの原体験は既述のとおり教育だったわけですが、秘書時代にもいじめ問題に取り組みました。私も二人の子どもの父親ですが、この世に生を受け、いじめで自ら命を絶つ子どもなど、いてよい訳がありません。涙ながらに訴えるいじめ自殺者のご両親からの要請を受け、いじめ撲滅のために何ができるのか文部科学省の初等中等教育局の課長補佐さんに交渉しました。まだまだ隠蔽体質があり、大津の例を見ても、いじめが起きても悲劇が起こるまで隠し通そうとします。実現はしていませんが、きちんといじめに対処した教員には、きちんと評価点をつけるという人事評価制度をご提案しました。

高校時代は、弓道部に所属し、部活に勉強にと熱心にと書きたいところですが、気楽な学生生活を送っていました。人並みに受験勉強をしながら、将来のことなどそうは深刻に考えないで「あれをしたい、これをしたい」と希望願望ばかりを思い浮かべていました。そういう生活の中でわたしが志望したのは、法学部。法学部は政治学科を併設しているケースも多く、世を動かすルールである法律を勉強しながら、卒業後はそれを扱う立場になりたいと考えたのでした。おかげさまで大学にも無事合格し、高校時代に引き続いて気ままな大学生活を送ることになります。

名古屋大学法学部に入学したのちは、アルバイトに明け暮れ、いわゆるどこにでもいそうな大学生活を送りました。4年のとき、ゼミの指導教授に政治家の紹介をお願いし、東京にてインターン生活を送りました。当初は2,3週間くらいと考えていましたが、どんどん長くなり、気づけば3ヶ月ほどになりました。当時インターンとして付いたのは、民主党3期当選の議員で、私は朝から晩まで彼に同行しながら政治家の生活をつぶさに観察する機会を得ました。初めて生きた政治を見ながら、いつかは自分もという想いが膨らんだのもこの時期でした。ちなみに、当時はインターンという制度がまだ日本に定着しておらず、翌年からインターンを行った学生には単位が与えられるようになったのをみると、私は良い実験台になったようです。後輩の道を開いてあげられ良かったと思っています。

インターンを終えて大学に戻った後も、私はそのまま秘書の道に進むか、就職をするか正直なところ迷いました。迷ったのは、秘書の経験をしてみてわかったことが、丁稚、職人の世界であり、社会人としてのいろはを学ぶいわゆる新人研修制度のようなものはないことを知ったからです。それに、社会人を多少経験してからでも遅くはないのではという思いもありました。銀行員は、もちろん会社の規模にもよりますが、経営者と直接話をするケースが多く、自分を磨きたいという思いもあり、大合併を発表したばかりの第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)に就職することを決めました。就職してからは、先輩の指導を受けながら、個人、法人への融資業務や、第一勧銀ならではの宝くじ販売などを経験しました。当時、今もそうですが、不況の真っ只中で、貸しはがしなどが問題になった時期でした。どこの銀行も不良債権を抱え、金融ビッグバンといわれる改革が進められた困難な時期でしたが、出会った経営者らの哲学を伺いながら、成長の機会を与えていただきました。

2003年の衆院選が近づき、インターンとして付いていた代議士の要請で秘書として政治の世界に本格的に足を突っ込むことになりました。私は公設秘書として地元の方々の陳情対応や、国会での政策作りなどにかかわり、この日本の政治の動きを身近に捉えることができました。思えば、政治家の修行がタダでできたということですから、今の私からすればこんなありがたいことはありません。大小のお手伝い合わせて20回近くの選挙戦も経験させていただきました。
このとき学んだのは、やはり何かをしたいときに、どこの役所のどういうところを押さえれば実現できるか、解決に繋がるかという「勘」でした。日本の社会ではどこもそうですが、「調整」「根回し」などが必要です。そういった勘所を学べたのは貴重な体験となりました。また、政治の現場に身をおいて、毎年のように制度改正が起こる様子を見るにつけ、270年を超える太平の世を築いた家康公の偉大さは、次第に、実感として理解ができるようになりました。

外から見た愛知・岡崎は、日本でもっとも元気な街の一つでした。自動車産業のおかげもあり、経済的には群を抜いて元気な状態で、私はこのふるさとを誇りに思っていました。しかし、地元でご尽力いただいていた方々にはある意味失礼な話かもしれませんが、私が見た愛知・岡崎にはかげりが見えてきたのです。大々的に全国紙で報道されたような事件が起きたことなど、いまだに澱んだ空気をまとったふるさとを見たとき、私は、何とかしたいという思いが強まってきました。

私たちの前途には、困難な課題がいくつも待ち構えています。しかし、かつて郷土の英雄徳川家康公は江戸に幕府を開き、三河気質で日本に空前の平和な時代と繁栄をもたらしました。そんな三河人、愛知人である私たちが声をあげ、しがらみのない勢力によって大胆な改革を断行するための政治風土をつくることができれば、必ずやこの困難な時、閉塞感を乗り越えられると私は信じています。江戸開府から約400年を経て、いまこそ再びこの愛知・岡崎から日本一元気な街にする、そんな新しい選択を私と一緒に始めようではありませんか。

私は、1978年の生まれです。ちょうど団塊の世代と呼ばれる世代の、子の世代に当たります。団塊の世代よりも上の世代の方々は、この日本を戦後の焼け野原から見事に復興していただきました。また、団塊の世代の方々はその旺盛な消費意欲により、経済を活性化させ、今日の世界第3位の経済的地位を確立していただきました。今の日本は、これらの方々の活躍なくしては考えられません。私は、そこには最大限の敬意を表します。私が小学生ながらに見たアメリカでは、早い方は50代から引退し、多くの高齢者夫妻が全米の行楽地をキャンピングカーで移動しながら楽しく引退生活を過ごす光景が見られました。今の日本では、そっくりそのままのことをしていただくのは難しいかもしれませんが、高齢者の方々には、安心して老後を過ごせるよう、社会保障制度をしっかりと充実させていかなければならないと考えています。

ただ、私たちの世代以後の人たちを顧みると、残念ながら社会に出た当初から、超氷河期といわれる時代であり、実感ができるほどの好景気にめぐり合ったことがありません。バブル崩壊に始まり、リーマンショックによる世界大不況など、世界は大変な苦境にある時代ばかりを見てきました。最近は、生まれてこの方不況という世代も出てきています。こういった時代において、新しい取り組み、新しい変化への対応を行っていくのは、やはり若い世代が行っていくべきだと思います。私たち30代も、社会に出て、家族を持ち、社会、政治のことを考えるようになりました。そういった中で、全国で200名以上の都道府県議会議員が高い志を持って誕生しています。今こそ、若い私たちにも政治参加をさせていただき、皆さまの良識で、子や孫のためにも活力あふれる愛知・岡崎を再生させるチャンスをいただきたいと切に願っています。

若い私たちには、しがらみがありません。その代わり、それほどたくさんの蓄えもありません。また、私の親はサラリーマンです。今回の選挙は、普通の家庭で育った、普通の人間が選挙という、一般的には、「大それた事」だと私は思っています。お金をいくらでもかけられればそれに越したことはないかもしれませんが、私には政治家である親類も、継承させていただく地盤も、資産もありません。しかし、誰にも負けない信念と若さと、実行力で皆さんと一緒にこの愛知・岡崎を日本一元気な街にしていきたいという燃える想いがあります。今の時代、政治は、特定の名家のものではありませんし、子や孫に引き継いでいくものでもありません。この愛知・岡崎から、そんな悪弊を一掃し、新しい政治風土を根付かせていこうではありませんか。皆さまには、ぜひそんな私の政治姿勢に共鳴していただき、一緒にこの戦にご尽力いただくことを祈っています。